母語を忘れたカナリヤ・ウチナーンチュにならないで

しまくとぅばは県民の魂 学校教育や 採用試験で導入を

しまくとぅば連絡協議会では、この程離島を除く県内全市町村長と教育長に対し「しまくとぅば普及施策の強化を要請(那覇市面談、それ以外は郵送)した。しまくとぅばの日制定10年が経過し県民意識は高まっているが話者は減少の一途だ。民間ボランティアの取組だけでは限界があり復興の根本は行政の施策強化と「学校教育への導入が不可欠」だという認識による。具体的には現行制度で可能な教育特例校制度の活用が主。既に那覇市は英語を、中城村は歴史「ごさまる科」をこの制度で実施している実績がある。要はその必要性を教育関係者がいかに認識しているかだろう。
普及活動をしていて痛切に感じるのは「しまくとぅばを習得して何の役にやつのか?」「方言札で抑圧され過去を総括することなしに、今さら・・・」という反問が聞かれることだ。確かにしまくとぅばは沖縄の芸能文化以外は日常的なニーズはさほどない。しまくとぅばが無くても生活に困ることはない。しかし歴史を振り返ると私たちは母語を奪われたのだという認識を忘れてはならない。「言葉は魂である、言葉が滅びるということは魂が滅びる、つまりはウチナーンチュでなくなるということだ」。これはしまくとぅばの日制定5周年記念公演「喜劇 ウチナーグチ万歳」で脚本の大城立裕氏が寄せた一文、まさに至言である。私たちは「しまくとぅばの習得は母語を復興してアイデンティティーを確認すること」つまりウチナーンチュとしての人間回復・人権回復だという認識を持つ必要がある(世界原語権宣言)。若い世代は、もはや母語は日本語」になっている。歌(母語)を忘れたカナリヤになってはならない。しまくとぅばの復興は基地問題同様、自己決定権に繋がる問題意識である。ニーズがなければ作ればいい。しまくとぅばで成り立っている琉球舞踊や三線の試験は真っ先に取り入れるべきだろう。自治体も職員採用試験で取り入れてほしいものだ。
問題意識という点で最近目についたのは、本紙3月3日の論壇「ウチナーグチに可能性」。
伊波普猷賞の伊佐眞一氏が受賞式で行った記念講演のウチナーグチ要旨を読んだ投稿子が感動、「ウチナーグチは学術的公的な言語としては向かないのではないか、文化的・言語学的な面の貴重さを認めながらも、生きた言語として生き残ることはないのではないかと思っていた。(中略)今回の講演要旨は、新たにウチナーグチの生き生きとした生命力を感じた」と。沖縄語は日本語と比較して語彙が少なく、表現力に乏しい面もあり、散文には向かないという指摘もあるが、逆に日本語にはない味わいがある。伊佐氏のウチナーグチ文章はリアルに状況が浮かぶ。まさに生き生きしている。夏目漱石の「我が輩は猫である」をウチナーグチ訳した 宜志正信氏の「我んねー猫どぅやる」を思いだした。
2017年3月26日

この記事は4月11日、沖縄タイムス論壇に掲載されました。論壇は字数制限のため、一部修正しています。 南風原(ふぇーばる)ぬハルサーかまでー